宗教

人生で何度も何度も巡ってくるものには

必然的に縁を感じる。

物なら写真、本なら聖書。

逃れようとして諦め、受け入れる。

聖書…宗教は小さい頃から特に身近で、

先祖はどちらも仏教徒だけど、

母や叔父はクリスチャンだった。

特に叔父は熱心で、上京するのにポケットバイブルを手紙に同封して渡してくる様な人だ。

私は宗教の本質を理解していない様な人間は好かないので、短気な叔父も勿論苦手だった。

そんな叔父から頂いた聖書は読む気になれず、部屋に置いておくのも気持ち悪いと思ったので、アパートのベランダで火をつけて燃やしてしまった。

紙が燃えていくなかで、私はもう天国とかには行けないのかな…と思い浮かべつつ、極楽浄土という選択に賭けることにした。

当時、私が住んでいたアパートは、壁が非常に薄っぺらい構造で、隣のカップル達の会話がよく聞こえていていた。

聖書が本格的に燃え出した頃、

「なんか焦げ臭くない??」

と、隣室から聞こえたので、急いで

燃えているものを部屋に持ち帰り

鎮火させ、残骸を捨てた。

はぁ、ようやくこれで親戚の異様さから逃れられた。

安寧の地を築く第一歩だった。

 

 

その他変な宗教の勧誘にあったりしたこともあったが、

そんな出来事は人生のほんの一部で、

私は宗教に対し拒絶しているわけではない。

寧ろ前向きな人間ですらある。

 

 

では、宗教心を持った人間とはなんであるか。

大きく分類してしまえば人間は2種類に分けられると、私は考える。それは、

「生きる為に生きる人間」と

「死ぬ為に生きる人間」の2つだ。

 

別の言い方をすれば、欲深いか、執着心

があるかとか、そういったことなんだと思う。

これは善悪の問題ではない。

生きるには欲が必要不可欠だからだ。

聖書は人間の欲に対して否定的であり、人間らしい人間の本ではない。

ある種人間性の否定だ。

仮に人間性が否定されることが正しいとするならば、私達は今ここにいないだろう。

重要なのは生死のバランスを取ることだ。

ピュアな人は天に程近い。

人間界で生きるには狡さや欲を身につけて、罪が必要なときもある。

反対に、人間としてのエネルギーが強く

欲深い人は、聖書から学べばバランスが取れる。

どちらかに片寄れば、

精神的苦痛や不満、早死に繋がると考えられる。

 

総じて言えば、宗教とは自立に必要な学びに過ぎない。

偶像崇拝はメタファー表現でしかないのではないだろうか。

神社の本殿に鏡が置いてあるのはその為だと考えられる。

人は弱く、自信がなくなると何かに縋りたくなり神に祈る。

そんな時ですら、祈るだけで事態が解決することはないと、誰しも心底では理解しているはずだ。

偶像崇拝は自分を信じきれなくなった時、神に縋る様な構図で、自分に祈りを注ぎ、自信を付けさせる為の最終手段のように思う。